30年近く前のことだからもうちょっと新しい話題を提供したいと思うのだが、旅行の末フィリピン女性と結婚して18年間旅行はままならないので思い出しながら書いてみる。中東の歴史は5000年続くことで、30年ぐらいなんてちょっと前のことだからといってみる。
シリアは1987年10月上旬から11月上旬にかけての1ヶ月旅行した。
純粋にシリアを1ヶ月旅行するのは今でもきっと珍しいと思う。ちょっと変わった印象だが、シリアはトルコと同じくらい印象の強い国であった。
トルコは物価が安く、食べ物も美味しく、親日的で楽しかった。だが10月上旬になってトルコの東の端Karsで雪が降り始めたところから3ヶ月の滞在期間も短くなりシリアへ南下することにした。シリアのビザはそれより1ヶ月以上前にイスタンブールで取得した。
シリアのビザは、ドイツ人や日本人など比較的政治が中立的な国は取り安かった。アメリカ人は旅行目的では入国できなかった。
シリアへ旅行する人はトルコに比べるとぐっと減る。
ガイドブックもほとんどなかった(地球の歩き方もSurvival kitもなく、West Asia in a shoestringという本でシリアの部分はわずか30ページくらい)。
地図といくつかのホテルが紹介されているぐらいだった。
トルコのディヤルバクルから、シリアのアレッポへ抜けるバスに乗った。
国境を抜けるバスは、距離からいうと国内バスの2倍くらい。
国境を抜けるバスは朝10時頃発で夕方5時頃つくものだったと思う。
この国境を抜けるという感覚は、ヨーロッパでは改札も何もなく素通りだが、アジアでは緊張感を伴う。
イランとトルコ、トルコとシリアはあまり仲が良いとはいえず、イランの出国時とシリアの入国時は緊張感があった。
イランの出国時は個別に別室に呼ばれ、英語で質問を受ける。イランのときは狭い部屋で服は脱がなかった方が、台の上に立ってボディチェックを受けた。
履いている靴下の中に入れておいた非常用のUS$50を見つけられて、「やばい」と思った。(入国時に所有している外貨を申請して出国時にチェックをする)
真剣な顔をして「返してくれ」と言ったら返してくれた。
シリアでは一人ひとり呼ばれたのだが、日本人であると名前を確認してイミグレカードと税関申告書に書くだけですんだ。
ただ英語ではなくフランス語のフォームで、ちょっと苦労した。間違ってしまった。
国境を抜けるバスに、クルド人の若者が一人いた。
同じバスなのだが、バスに載せた荷物は全てチェックされるため全部出され、シリア入国時に同じバスにもう一度乗せられた。
そのとき、あるアラブ人の40歳ぐらいの人が、「日本人は前に来い」と笑顔で行って手招きをした。お互いに英語が片言なので簡単に会話が終わる。ところが顔つきの異なる若者はトルコに乗っていたときは前の方の席だったがアラブ人のおじさんの席の近くだったので「そこは俺の席だ」と言ったら、アラブ人のおじさんが険しい顔をして「お前は後ろに座れ」と強い口調で言った。その若者はすごすごとバスの後ろの方に座った。
途中休憩のときに、バツが悪かったので若者に「Kurudish ?」と尋ねたら頷いていました。
浅黒い濃い感じの顔は、トルコやアラブとは違う感じに見える。
トルコ・シリア・イラン・クルド、またその中でのアラウィー派、ドルーズ派、アルメニア人、キリスト教系などのマイノリティを含めた複雑な状況を知るのは後になる。
そのときはあまり知らなかった。
国境から2時間ぐらいかかって、シリアの北部の都市、アレッポに着いた。
今、ホムスの大虐殺の記事を見て、近くにある都市であるHamaの水車のことを思い出した。Hamaはこの水車とそれを取り巻く公園ぐらいしか見るものはなかったのだが、ぐぐってみたら写真を見つけた。それに1980年代にもっと大きな大虐殺があったなんて知らなかった。私が行った頃はまだそれから5年ぐらいしか経っていなかったんだね。
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狭い土地で武力を持って争っていることは何とかならないかな。
#日本で株を持っていて、数百万円分くらいはそのままにしていた。ちょうどダマスカスにいた頃ブラックマンデーに遭遇したんだよね。その頃は今と違ってネットで株取引なんてできないし、シリアは外からの情報が入りづらいところだったけれど、夕食の立ち食いコロッケみたいなものを食べているときにちらっと小さな9インチぐらいのテレビに世界の経済がなんたらと大変なようだということを目にした。その頃は株で儲かったいたけれどもともとバイトや小遣いで貯めた金だったので、あぶく銭だから気にしなかったね。
学生時代に株だけで1000万円ぐらいの資産が一時的にあったのだけれど、道が違っていれば別の道もあったかもしれないかな。
あの時はみんなバブルで、証券会社のボーナスが100万単位で支払われていたそうなので、学生の私がそれくらい持っていても別にと思ったし、結構散財した。
今は家族4人で生活していくのに、ヒーコラ言っているけれど。