12月
15
2010

[本]怒らないこと2

ここ数年になるが、私は「怒らない」ようになった。
あきらめの気持ちか、怒ったところでどうしようもないか、と思ったのかわからないけれども、かぁーときて怒ることはめったにない。息子に対して怒るのも半分ポーズみたいなところもあった。
カチィやイラッとすることはあるけれど、順番を抜かされても「まあいいか」と思ったりする。相手が怒っていても、「なんで怒っているのだろう?一緒に怒ってやらないと調子狂っちゃうかな?」と思うこともあった。

実は「怒る」ほど、がんばって生きていないというせいかもしれない。

その「怒らない」が妻や子どもたちにとっては幸いだったようで、温和な関係を築けてこれたと思う。ただそのとき、「怒る」という感情が自分に対して向かっていた。その当時の自分は、生きる気をなくしたうつ病のような状態で、実は心をずたずたにして危険だったかもしれない。


怒らないこと 2 (役立つ初期仏教法話11)

  • アルボムッレ・スマナサーラ
  • サンガ
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書評

怒ることは生きるものならば誰しもあること。人は生きているだけで苦しいものと書かれている。苦しみもがいていることが「怒る」という行為である。感情を出して「怒る」というだけでなく、イラッとしたこと妬んだこと、心の中でカチンと感じたことなどすべて「怒る」という種類に属する。

「怒る」ということは、自分を破壊することもあるし、人的関係を破壊、しいては社会を破壊することもある危険なことである。しかし、「怒る」ということ自体が「生きる」というエネルギーでもある。生と破壊を矛盾を抱えながら、私たちは生きている。

それならば、「怒る」ことを制御しよう。「怒る」ということは10種類に分けられる。その中には絶対にやってはいけない種類の「怒る」があり、制御しやすい「怒る」もある。

そもそも、「怒る」もとの私たちの自我というものが、あると感じているが、実はないものだ。
瞬間瞬間で連続する自我というものはなく、絶えず変化している。変化しているものは確固たる自我ではない。その存在している錯覚のもとで生まれる「怒る」ということに、どれだけ価値があろうか。

ならば、「ああ、私は怒るという気持ちが生まれつつあるなぁ」と客観的に捉えて御するように、「怒る」を水のように流せば、「怒る」と共存できる。そのうち「怒る」という気持ちが出てくるのさえ、自然の一部と捉えることができれば、きっと悟ることができるんだと思う。

仏教には、無常と慈悲という言葉がある。
「行く川のながれは絶えずして、しかも本の水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとゞまることなし。」という方丈記にあるとおり、私たちの「怒る」だけでなく、生きている存在そのものが、無常である。そしてその存在がいつくしみなんだろう。

ちょうど、物質そのものが波のエネルギーであるかのように、存在すると思えば存在するが、存在しないといえば存在しないといえる。さて、そう考えている自我は存在しているのだろうか?そんな哲学的な疑問を沸いてしまう。

では、喜怒哀楽の「喜ぶ」「悲しい」という気持ちは、「怒る」とは別物だろうか?生きるための原動力だろうか?私はそんな気がしてならないが、著者のその考えを知ってみたくなった。

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