もはやこの本は絶版で、古本か図書館でしか読むことはできないかもしれない。 私の場合も、図書館で取り寄せて読んでいる。
もとはといえば、たまたま知ったakiさんのブログ(http://www.ikomaru.com/aki_note/?p=3593)でこの本のことを知り、松岡正剛氏のことを知って、彼が紹介していて(http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya1292.html)読もうと思った。
本の内容は、現在有名となっている小説家、演出家らが喰えない時代にどんなことをしていたかについて書かれている。すぐに芥川賞や直木賞をとったけれど、その後苦労したという人もいるし、苦節何十年でやっと小説を書いた人もいる。
先に苦労するか、途中で苦労するか、後で苦労するか、その苦労がよい作品の味付けになっているんだろう。
文筆業が主なので、他の業界で苦労した人のことはあまり書かれていない。プログラマーで苦労したというのはどんな人なんだろうか。そもそも仕事の性質が異なるのだろうか。
詳細は頭の中で解けてしまったので、具体的な例は松岡氏の書評を読んでほしい。
また松岡氏の書評もそうだが、この本では「単に苦労した」という話を抜き出したいというわけではない。仕事の本質とはなんなのか?自分しか生み出せないものは何なのか?ということの追求が、無名時代の中でもがきくるしんでかもし出したものだということではないのか。
本来の才能とは、自分が選択した方法と内容の関係において隙間を見つけ、そこにブレークしていくものなのに、それを仕事の所与条件に自分が包まれすぎてい るために、その可能性にみんなで蓋をしてしまったようなものなのだ。これではブーツストラッピングの絶対好機を見逃すのは当然だ。仕事の「骨」と「棒」と に向き合わなくなってしまっている。
そもそも「有名」というのが虚業であって、「無名」のほうが本来の実業なんだということだ。
有名になったから、才能があるとか実力があるということではない。才能や実力は、有名か無名かということと関係ない。
有名にならずとも、日々の仕事を着実にこなしていくこと。自分の存在の意味を見つけるために、与えられた仕事をするのではないか。
はじめまして。引用すみません、、、:-)
もがきの部分で思い出したのですが、これまた松岡正剛さんでごめんなさい、千夜千冊経由で中井正一『美学入門』という本を読みました。
http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya1068.html
二部構成になっていて、後半の放送大学の講義が元の “日本の美” ではもがきの過程が東洋の美の根底にあるというようなくだりがあり(たしか・・・)何かつながるかもしれません。
> プログラマーで苦労したというのはどんな人なんだろうか。
どんな人なんでしょうね。どちらかというと天才で片付けられてしまう雰囲気のある業界な印象を受けますが、無名時代な私がもう少し時間がたつと浮き彫りになるのでしょうか 🙂
長々すみません・・・!
akipponnさん、コメントをありがとうございます。
いつもブログを読んでいます。「もがき」って、従来の美や価値観の隙間から摩擦を伴って出てくるものかな。まだ読んでいませんが、それが日本が生み出す美意識なんでしょうか。
僕はプログラムをつくるというのはテクニカルという技術ではないと信じています。
全体の構造を構成してアルゴリズムというかすがいを打ち込むようなプログラムで、大量生産で生み出す金太郎飴のようなプログラムではないという意味です。
ありがとうございます。
たくさんのブログの記事を楽しみにしています。