11月
12
2008

元祖Digital Native

そういえば、私も1995年にDigital Nativeのはしくれで仕事を始めていた。

アンダーセンコンサルティングを休職して、大学院に行く決意をしたのは1993年の28歳のときだった。その後、フィリピンへダイビングへ行って妻と知り合い、すぐに結婚。

大学院の修士過程で学びながら、妻を日本に呼び寄せ、、、、、あっ娘ができちゃった。収入ものないのに蓄えの底が見えてきてやばかった。

大学院で学ぶと同時にアルバイトやインターネットでビジネスを始めた。

1994年にMosaicを教えてもらってから、1995年にNetscape 1.0が出て驚いた。「こりゃ世界が近付いた」

NetNewsを毎日見ていたら、オーストラリアの会社がMacintoshのシェアウェアを出荷していたのだが、日本人向けに翻訳をお願いしたいという記事がアップされていた。

そのときはMacintoshを使い始めて8年ぐらいたっていて、プログラミングにも挑戦していた。とはいってもプロの品質にはまだまだだけれど、日本語化するプログラムはリソースを書き換えるだけで済むというのがわかっていたので、試してみることにした。

英語でオーストラリアの会社へメールを出した。
すぐに返事があった。了解してくれたが条件があった。

その時は私は東京から名古屋へ戻ってきたが、同時に東京の人からも応募があったので調整してほしいという。さっそくメールを出して相手との交渉が始まった。

お互いに全く面識がないので、私は自己紹介がてら研究室の自分のHPでプロフィールをアップしていたのでそのURLを伝えた。また相手がどう出てくるかわからないので、少しずつ試しながらやることにした。私がオーストラリアの会社とやりとりをして一次受けをすることにした。

原則は「仕事も半分、報酬も半分」

その後、日本語翻訳をしているという噂から、フランスのシェアウェア作者からメールがあり、そのソフトの翻訳をすることになった。

ソフトの翻訳のスキルは次のものが必要であった。
・Macintoshのリソースフォークを編集できること
・Macintoshの操作や言葉がわかっていること
・技術的な英語を理解して、それを日本語に翻訳できること

英語で直接会話する自信はなかったが、英語でメールのやりとりや技術的な文書を読むことは仕事で慣れていたので、特に苦労した覚えはない。
でも、一つのソフトウェアを翻訳するのは2?3日かかった。
ソフトだけでなく、マニュアルなどの添付文書もたいへんだった。

完成してから報酬についてメールでやりとりした。
当初は売り上げの20%を要求した(しかも日本人相手の)。シェアウェアの場合は、Kagiという日本で言うVectorの売り上げ代行業者の手数料を除けばほぼすべてが利益になる。

50%は製作者でないのでおこがましいが20%ぐらいならば悪くないだろう。

オーストラリアの会社は、かなり売り上げが上がっていて、当時のMacintoshのインターネット市場では一番大きな会社となっていた。とはいっても社員3人だが。それで売り上げの一部という契約は難色を示していたので、サポート料という名目で年間US600$ということになった。

サポートソフトも2種類なので悪くないかもしれない。

フランスのシェアウェア。
代行業者のKagiとも英語でやりとりをして、フランスのシェアウェア作者の売り上げのうち日本人分の20%を私の口座に支払うという面倒な契約を了承してくれた。
しかし売り上げが伸びず、最低基準がに満たしなかった。

この仕事を通して、シェアウェアというものや商用ソフトウェアについて学べた点がよかったと思う。

シェアウェアで利益をあげていくのはとても大変なこと。
どちらもプロテクトをかけていなかったので、使用者のうちお金を払ってくれるのは数%。全員が払ってくれれば、ビジネスとしてなりたってくれたが、きちんと管理するという敷居を下げているのでそれはしかたないこと。

プロテクトをかければ、面倒を避けたいという人が増えて、試してみようと言う人が減る。

1年以上続けたけれど、収入が少なくビジネスとして成り立たないと判断して、この仕事を辞めた。ちょうど大学院の修士課程を終えて、家庭のために名古屋で就職することにしたからだ。

シェアウェアの仕事は一緒にやっていた東京の人にすべて譲渡し引き継いでもらった。チャンスがあれば東京の人と会おうと思ったけれど、名前と銀行口座は知っていても、顔も知らない。

オーストラリアの会社も作者の顔は知らない。フランスの人も顔は知らない。まだSNSが流行るずいぶん前だし、デジカメもなかった時代。携帯なんてものもないし、当然写メールもない。

そんな状態でお互いの信用と仕事能力を探りながらよくやったもんだと思う。

ちょうど同じ時期に、翻訳業を始め競合となった会社がある。
スタートはこちらが早かったが、次から次へと翻訳をしてあっという間にソフトの数はすぐに追い抜かれてしまった。

シェアウェアの日本語化というニッチなマーケットであるが、今にして思うとそんなニッチなマーケットでも1番を取ることが重要であったなと思った。なんとか1番をとって、他に事業を広げるチャンスを失って失敗した。

・インターネットがCGIの動的コンテンツで、ビジネス市場に浸透するとは思っていなかった(大学内でインターネットを見ていたし他に付き合いがなかったので見誤った)
・シェアウェア翻訳業もビジネスとしてなりたたないという判断をしたが、スタートアップで顧客と多少とも利益を出しているのは悪くなかった。サラリーマンの視点でビジネスが成り立たないと判断したのは早計だった。

その失敗を噛みしめて、さらに4年後にベンチャーに参画することをした(これは既に触れているのでいいか)。

私もまだ30になったばかりで若かった。
22歳に世界一周をするときも、いろいろなものを見たり経験することもあったが、一方でビジネスの種を探していたりしたが、、、、見つからなかった。ターゲットが曖昧だったのは若気の至りだった。

いつも失敗ばかりして、あとで考えが足りなかったと気付くのだが。

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