ちょっと頭の中で濛々としていて結論がないけれど、書き留めておこうっと。
昨日紹介した「裸でも生きる」で書かれていたことだけれど、米州開発銀行
の職員の話。職員は発展途上国のエリートたち。自国の大学かアメリカの大
学で博士課程まで行って、職員として就職している。
だけど自国にとって問題である貧困とかは何も知らず、別世界のように生き
ている。給料は給与も先進国並みで、所得税はかからない。彼らが行政の組
織の上の方で存在することはしかたないことなんだろうか?
フィリピンでも上流階級は、中流階級、下流階級とはまったく接触はない。
日本人だったらたいていの場合は、上流階級や中流階級の人と接触すること
になるだろう。
フィリピンにあるNGOだって、フィリピン人にとっては高給が優遇される職
種の一種。どこまで優遇されている人たちが、下流階級のことを意識して助
けようとしているか疑問がある。
フィリピンの上流・中流階級の人たちは、同じフィリピン人としてみて欲し
くないと思っているところもある。確かに受けた教育や環境はまるで別世界だ。
それはフィリピンに限らず世界中で同じこともしれない。
教育や環境で話している話題が異なる。結局の同じような環境で生きていく
しかないのかもしれない。
「世界の人がみんな幸せでありますように」と願っていても、人それぞれの
遺伝的な能力や外観があり、育っている環境があるから、その幸せの基準も
ことなるかもしれない。
私たちそれぞれが狭い地球で生きていくための知恵を出しあい、ときには助
け合い、ときには足を引っ張って自分が人の上にのし上がり、生き物の生存
競争でおきていることを続けていかなくてはいけないかもしれない。
それは原罪というものかもしれないし、煩悩なんだろう。