10月
30
2006

悟るということ

夜になって疲れているとナチュラルハイになってしまい、自分でないような
昨日のような文章を書いてしまいます

あまり気にしないでください。

ついでながらもうちょっとだけ、ナチュラルハイになって書きつづけてみま
す。若いときは世の中について知りたいと思って、いろいろなことを学ぼう
と知ります。それが理科系に進むと、本当の世の中は何かということが知り
たくなります。真実を探すのです。

数学の方程式の答えや、ニュートンの法則、E=mc^2、不確定理論、いろいろ
な単純な理論で物事を解明しようと思います。世の中の基本法則は単純な法
則や理論で成り立っているのかもしれません。

私の世代は、ちょうどオウム真理教の世代でした。
私が大学にいた当時もオウム真理教の名前を伏せたサークルがあったりしま
した。今になって思えば、一歩道を踏み外していればそちらにいったかもし
れません。人一倍、哲学や宗教に関心があったと思うし、昨日のブログに書
いたようにインドのリシケーシュに行っていたりしましたから。学生時代に
休学して1年間旅行していたのも、いま思えば自分探しの旅をしていたのか
もしれません。

いろいろな本を読みました。ムーという雑誌やオカルトものや、宗教書ま
で。オショウという人の書いた本も、日本人として始めてチベット入りした
河口慧海の旅行記。デカルトもスピノザも。パスカルも。聖書もコーランも
興味を持ちました。

それぞれの宗教の聖地へ行ったり、教会を覗いたり、モスクに入ったり、お
祈りの真似事をしたり、、、、

私が特別だとは思いません。同じようにそうやって自分探しの旅で世界中を
回っている人は同時期の日本人だけでも数百人。欧米の人やどの時代にもそ
んな人はいると思います。そして、どれだけ理解をできたか、自分のものに
できたかわかりません。

普通に聖書を毎日読んでいる人の方がずっとモノにしているかもしれません
し、街角にいるごく普通のおじさんやおばさんの方がそういったことを実感
をもっているかもしれません。

22歳の頃に自分が考えたことをここに書きますが、それから20年変わってい
ません。あれから20年経って、自分はその道をかなり曲げて今があります。
宗教や禁欲やそういったものに価値を見出せなくなったかもしれません。

それぞれの宗教の目的の一つは、人間としての悩みや苦を乗り越えようとす
ることにあると思います。それを全て可能にすることが、「悟り」を得るこ
と。仏教やヒンドゥー教やジャイナ教などではそういうみたいです。キリス
ト教でも、高次元の瞑想というものにそういう考えがあるようです。イスラ
ム教でもスーフィズムはそれを追求したようです。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%82%9F%E3%82%8A

「悟り」を得れば人は生きるのが楽になるといわれています。
そうなのか?「悟り」を得るとはどんなことなのか?

いまよりも人口の少ないシッダルタの時代、キリストの時代、そういった過
去の時代にそういう人がいました。それからいままで、「悟り」を得た人は
あまりいないのか?それとも過去の時代と違って、今の時代は「悟り」を得
るのは難しい環境なのか?

昔のことは美化されます。今はいろいろな側面で物事は語られ、善意に解釈
する人もいれば悪意に解釈する人もいます。昔は文字を持つ人はわずか、そ
れをしきる人もわずか、結局かなりの情報操作が行われていたと考えるのが
自然ではと思います。

そう、たくさんの「悟り」を得た人がいるはずです。

では「悟り」とは何か?

一つの仮説です。
生きていながら死んでいるような状態。物事に囚われず、いま生きていよう
が死んでいようがどちらでも身を任せるような。
いま死んでしまってもかまわない。いま生きてしまってもかまわない。

自分の肉体は自然の一部であり、自然の循環の中で自然の法則の中で肉体が
生きている。自分の精神も自然の一部であり、何を考えようと何を思おう
と、それは自然の一部である。

どんな苦しみもどんな痛みもどんな辛いことも、自然の中の一部。
それを感じるのは自然の一部であり、それに対処するのも自然の一部。
痛いかも苦しいかもしれないが、それは生きているという感覚。
辛いと感じるかもしれないが、それも自然の中での精神における思考。

楽しいとかうれしいとか感じるのも、自然の中の精神の一部。

何が起ころうとも、この一時でたとえ誰かに殺され、死んだとしても、自然
の一部であり、その肉体は自然の中の一部。

水が川になって流れるように、その水はただ単に高いところから低いところ
から流れているだけ。その水には、ときどき粒になったとか、水蒸気になっ
たりとか、形を変えようと、あくまでも水。そう自然の一部。

何をしようと何をしなくても、自然の一部。

なんてことを、自然と心に刻みこむことができればそれが「悟り」ではない
かと思った。私はそんな「悟り」なんてどうでもいい、普通に生きていれば
それでいいや。痛みや苦しみから逃れることはできず、いまももがいてい
る。もしそれが「悟り」というならば、まったくそれに到達することはでき
ない普通の俗人でございます。

なんでこんな堅苦しく、変なことを書いているかといえば、、書くと忘れる
ことができるんだよね。
つき合わせてしまってごめんなさい。

Written by in: 楽天日記 |

コメントはまだありません »


コメント&トラックバック




トラックバック URL

コメントのRSS feed