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2012 年 6 月 のアーカイブ

ubuntu で Unknown encoder ‘libx264’というエラー

2012 年 6 月 27 日 コメントはありません

ubuntuで、ffmpeg(avconv)を使おうとしたら、Unknown encoder ‘libx264’というエラーが出た。

x264のライブラリはライセンスが絡んでいるのでデフォルトでは入らないようだ。
以下のコマンドで商用のライブラリが入って機能する。

aptitude install libavcodec-extra-53

53か52はubuntuのバージョンによって異なるようだ。

カテゴリー: コンピューター タグ:

価値がなくなっていく人とラッダイト運動

2012 年 6 月 24 日 コメントはありません

「人間はコンピューター化に伴ってどうなるだろうか?どう対応すればいいのか?」というのが私のテーマである。
このSHOCKBYというのも、人間とコンピューターとの触媒としてありたいというのと、コンピューターによる変化(shocked by computer)を兼ねた名前である。

ギリシャの金融危機やスペインの第二のサブプライム問題が大きな問題になっているが、日本では対岸の火事という認識のような気がする。
既に中国や東南アジアの工場へ飛び火して景気の伸びが抑えられているので、日本への影響もある。
日本はそれよりも景気が良くならないので、たいして変わらないのかもしれない。

ギリシアの多すぎる公務員の問題や紛失決算、スペイン・アイルランドなどの若者の50%近い失業率という表面的な問題が話題になるが、その問題の根っこは何なのか?
第一次産業や第二次産業が、アジアなど新興国へ移ってしまったので、仕事がなくなってきたためか。
アメリカや西欧、日本では、第二次産業の工場は新興国へ移転しているのは事実だ。
それも、単純な労働による工場から始まって、今やハイテクのものも移る。

その原因は、工賃の高さやさまざまな障壁によるコスト高であり、先進国で生産していては新興国とは勝負にならない。
日本は熟練工の能力の高さは世界でも高い水準にあると言われている。
工場で働く人は一定の学力があり品質も高いが、マニュアルの充実や単純な工程に分割することで能力が必要となければ、やはり勝負に勝てない。
iPhoneを作っている深センにあるFoxconn社の工場が話題になるが、精密な部品は台湾や他所の工場で作っていて、あとは単純な工程をたくさん設けた組立ての作業である。

数万人の規模で、それぞれ単純な作業を行うので、精神疾患になりやすいようだ。
それと対極にあるのが、トヨタの自動化である。単純で効率的なところに人間性をバランスよく持たせて、熟練工の作業であった。
ただ少し前がピークで有るのではないか。車の製造もコンピューターの部品がメインで、部品点数が減っていく単純な作業に向かっているのだろう。

かつてPCは複雑な部品を組み立てていた。だが、ICの中にほとんど収まり、今やPCの構成するパーツは減っている。
少し前にDOS/Vパソコンと流行ったときは、安くて性能の良いパーツを入手することが楽になり、少いパーツでメーカー製ではないPCを自作できた。
テレビは適当なケースが販売されているわけではないのでテレビの組立こそなかったが、テレビもPCも一般的な部品でどの会社でも特に技術力はなくてもだれでも組み立てて販売する事ができるようになった。

いづれ、車も電気自動車が安く出まわって、どの会社でも車を販売できるようになるのだろう。
特にスピードは最高30km/s出れば十分で近所しか走らないのであれば、電気自動車で十分である。原付自転車より少し高いミニカーがたくさん出回るのではないか。
駐車場だって、今の半分の以下のスペースでもいい。
いやそのうち自動制御で運転すらいらないものが出てもおかしくない。「緊急のとき以外は運転をしてはいけない」という全ての車が自動制御になるかもしれない。
そうしたら自分の車すら要らない。タクシーも運転手が要らなくなる。

工場も既にロボットでつくるものが増えている。
自動販売機だってかなりある。
インターネットで本や商品、チケットを買えば、お店で相対することもなくなる。

人間が介在することがだんだんと減っていった。
人と接することが減るので寂しいと思うかもしれないが、豊かになるための効率化を目指しているからである。
人が介在すればコストがかかる。そのコストは受益者が支払わなくてはいけない。
お店から商品を買えば、その商品のコストには店員の賃金が含まれている。店員がいなければその分安くなる。

工場だって、農業だって、機械化のおかげで安く大量に作ることができるようになった。
18世紀のイギリスの産業革命から始まる機械化で、人が飢えるということが減ってきた。
かつて農業に従事していた人が炭鉱や工場で働くようになった。富国強兵策が取られ、工業化して軍艦や銃をつくりアフリカやインドを侵略して、侵略した国から農産物を搾取して効率化の道を歩んでいく。

その過程で、ラッダイト運動が起きた。機械による効率的な生産により、手工業者は自分の仕事が奪われるのではないかと思い機械を打ち壊そうとする運動、今でいうならば工場テロである。

コンピューターの元になるのは、その当時生まれたパスカルの自動計算機やバベッジの階差機関であった。20世紀に入り電子機器にして砲弾が届く計算機をつくる目的でEDSACやENIACが生まれる。ショックレーがトランジスタをつくり、インテルがICチップに収めることに成功して、今のコンピューターにつながっていく。

小さなICチップもコンピューターと数えると、人口の数千倍以上のコンピューターが既に存在する。
私たちの仕事は機械とそれを制御するコンピューターに囲まれ、力の要る仕事、便利な仕事を肩代わりしてくれている。
そして、コンピューターは少しずつではあるが、人間に近づいている。
文字を読み取り、音声認識をして、情報の検索をする。秘書の仕事のようなことも肩代わりするようになった。
そして、どんどんと機能を高め、人工知能を実現し人間とほぼ同じことができるようになるのは、2030年代中頃だろうと言われている。
あと15年くらい。

これからも多くの仕事が自動化されて、人よりもコンピューターや機械の方が効率がよくコストが安く使われていくだろう。

手工芸品の方が暖かさがあり機械にはない優しさがあるからそれを選ぶという人がいてもいい、だけどこれからはそういう手工芸品のようなものも機械で作れるようになるかもしれない。

それでは、人間はどうなるだろうか?
人間の仕事はコンピューターと機械に奪われていく。
人間のする仕事は、まだコンピューターにはできない高度の仕事と、プログラムをつくるには面倒な仕事が残るだろう。
今は単純な作業をする工場は、新興国へ移っているが一時的で、それすらも先進国のロボット(機械とコンピューター)に負けるだろう。
発電するコストは先進国の方が安いし、土地が安いところもある。物流コストや流通コスト、そして市場の変化を考えると最終消費地に近いほうがいいからだ。

今は工場が新興国へ移ったので、西欧や日本の単純労働者の仕事はなくなったという事を証左している失業率である。同時に、社会には熟練した労働者しか要らない、能力の高いものしか仕事ができないということも示している。大学を出るだけでは不十分でもっと高度の能力がないと仕事はできない、稼ぐことはできない。医者になるためには大学に6年在学し国試を受けて、その後経験を経て一人前に医師になれる。普通は30歳ぐらいであろうか。資格を必要としない他の仕事も、たぶん基本的な能力を身につけた上で数年の経験がないと仕事にならないのだろう。

コンピューター関係の仕事でも、英語はできた上で、2,3のコンピューター言語を操り、データベースもそこそこ、さらにフレームワークもいつくか習得して、サーバー管理もできて、それが3ヶ月毎にアップデートされていくということができていないと仕事にならない。(私は英語などどれもまだまだではあるけれど)

どんな仕事も高度化しているので大学卒ぐらいでは本当は仕事はできない。ましてや中途半端な勉学をしていたのでは更に歯がたたない。
そういう人が必要とされるところは年々減っていき、仕事にはならないのだ。

「貴方のできることは、もっと安く新興国の人ができる。そのうちコンピューターがやってくれるので、貴方は社会に必要ない。」

人にとって最も不幸なのは、必要とされず無視されることである。
これからは、コンピューターにできないことをできる人間でないと必要とされない。
誰にも必要としない人間を、優しく保護できる社会であろうか?
家族にとって親と子ども、性別として男と女、社会関係として個人と個人、それぞれは人間関係でつながっている。
局地的には(Locally)お互いに存在を必要とする。
ただ、社会(Globally)としてはそれを許容できる社会であろうか。

反対に、社会として必要のない自分自身がプライドとして許容できるだろうか。
仕事もせず社会にとりたてて必要としない自分が、遊んで暮らしていて何も評価されないのに、生きている意味があるのだろうか?

きっと高度な能力を持ち、社会を構成したり、コンピューターを作り上げていく人は(しばらくは)必要だろう。
しかしそのような能力も、人工知能の高度化とともに必要なくなるかもしれない。
人工知能が進化して、記憶容量も演算速度も人を遥かに凌駕するようになり知能指数で言えば10000とか言う存在に人間は同じ基準で比較しても勝てない。
いくら100mを9秒で走っても車には勝てないし、運搬能力も勝てないし、計算速度も勝てないし、クイズ番組ですら勝てなくなっている。

人間が人間に対して行うクリエイティブと呼ばれる部分だけは残るのであろうか?
絵画、音楽、映像、小説など、創造を使って人々を感化させたり感動させるものはある。
それは残るかもしれない。ただどれだけの人が想像力を働かせ、他の人に影響を与えることができるのか。
才能のマスターベーションで人は満足できるのだろうか?「俺はすごいんだぜ!」と。

今の西欧や日本での問題は、社会にとって必要な人が減ったという意味ではないかと思う。
今の問題は、その必要でない人を稼いでいる人がどれだけ助けるのかという問題でもある。

能力が必要とされてない人、生産労働に従事できない老人をこれからも助けていくのか。助けきれるのか。
自分と関係ないところで勝手に社会にとって扶養しなくてはいけない年金制度や法体制をつくり、生まれながらにして借金を背負わされていると感じる若年層は多いと思う。私も物心ついた時に、国籍や貧富や家庭環境を選べずに生まれるのはなんて不公平だと思った。新興国の人はそう思っている人も多いと思うし、それも今はネット社会だから情報は世界中に筒抜けだ。

これからどのようになるのかわからない。
ただコンピューターは人間に近づいていくのは間違いない。
私たちは豊かになりたい便利にしたい自由が欲しいと思っているので、コンピューターや機械の進化は止めないだろう。
それとも、ラッダイト運動が起きて、自分たちの仕事を奪うなと進化を止めることをするだろうか?

これからの時代に社会が価値がないと考える人を養っていけるだろうか?
そして最後に、人は価値のあるものを作り続けていけるだろうか?
そして人はなぜ生きるのだろうか?

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ruby 1.9.3以降でruby-debugでエラーになるとき

2012 年 6 月 20 日 コメントはありません

ruby 1.9.3以降でruby-debugでエラーになるとき、以下を実行する。覚書です。

bash < <(curl -L https://raw.github.com/gist/1518441/)

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