アーカイブ

2006 年 10 月 のアーカイブ

開発したソフトウェアの権利とライセンス

2006 年 10 月 31 日 コメントはありません

携帯用のGoogle Calendarのプログラムは、今後以下のサイトで公開してい
こうと思います。
http://gcalmobile.sourceforge.net/
英語の環境なので、要望とかバグとか受け入れずらいかなと思うのだけれ
ど、がんばってみてください。日本語でもとりあえずいけるかな。。。。

できれば多言語環境でもやってみたいし、海外からの評判も聞きたいので、
このサイトにしたのだけれど、、、どうだろうか。

公開するに当たって、一番気にしたのは著作権の問題でした。
どんどん使ってもらってもかまわないし、ソフトを改変してもいいんだけれ
ど、勝手に自分のソフトの中に入れて儲けたりしないでねというのが主旨で
す。一番嫌なのは、人のを真似したのにも関わらず自分がつくったと言い張
ることです。

同じ事を同時発生的に、独自に生み出したのならかまいませんが、嘘は嫌い
です。

あとで気になったのは、自分がこのソフトを使ってビジネスをした場合に、
そのライセンスに振り回されるかもしれないというのが心配です。

このソフトは、Rubyという言語環境が必須です。RubyはRubyライセンスに
なっています。これは利用者がインストールするべきものなので特に気にし
ていません。そして、http-access2というソフトが同梱されています。
NAKAMURA, Hiroshi さんによるライブラリで、これはRubyライセンスになっ
ています。またMaehashiさんによる、http-accessとTAKAHASHI `Maki’
MasayoshiさんによるCookie部分のコードが混じっています。

私自身は、このhttp-access2を改変せずに使っていますが、今後問題が発生
すればお客さん自身の手で入れてもらう必要が出てきます。(「楽天日記
バックアップ」ソフトは、http-access2を使っていませんので、この問題は
ありません)このプログラムをつくるときに、何か障害が起きて、http-
access2を使うことになりましたので、その障害を取り除ければ使わなくて
すむかもしれません。

そんなことを考えながら、作っています。

さて話は変わるのですが、ソフトウェアの著作権は、会社で開発したソフト
ウェアは会社に帰属するが、受託開発の場合はお客さんではなくて開発会社
に帰属するというのがコの業界(俗にいうIT業界)の一般常識だと思います。

しかし例外が存在します。

まずは会社と個人の関係。
ソフトウェア開発において就業外で会社の資産を一切使わず自宅などで開発
した場合だ。仕事が終わってから、会社のパソコンを使って開発した場合は
除かれるのが普通かもしれない。

ただこのあたりは難しいところで、業務に差し支えなければいいのではと個
人的に思う。会社の業務の中で知識や経験を積んだものも、その脳の中まで
とりはずすことができない。そうやって人を育てることも、会社としての社
会貢献の一つではないかと思う。

ただ、業務で用いたソフトを少し変えて、自分の名前で出すことはいけな
い。競合するものを出すのは倫理的にやばく、どうせやるならば退職して0
からソフトを作らねばならないと思う。

会社と納品先の関係。

ソフトウェア会社としては、依頼されて作ったソフトに関しては顧客の意向
を実現するためのサービスを提供していると考えているのが普通である。レ
ストランが料理を作って提供するけれど、その料理のレシペを売っているわ
けではないという同じ考えかただ。

ただ、その料理を分析して同じものを作られてしまうのは倫理的に問題はあ
るが、ある程度は致し方ない気がする。それならば、料理のレシペに特許を
かけるか、そんな簡単な料理ならば諦めて真似されなくいような隠し味を考
えるしかない。

特許を出した公開することで、そのレシペが公開されてしまう。本当はレシ
ペを教えたくないところが多いのではないかと思う。それも、同業他社がマ
ネして利益を横取りするところが問題で、家庭内で同じ料理を作って楽しん
でしまうところまでは防ぎようがないし、ダメとはいえないのではないだろ
うか?

ソフトウェアも自分で、自分の社内で使う分には、多少仕方ないところがあ
る。ただ、それを他に売って利益を得ているというのは許せないところがあ
ります。

携帯用Google Calendar”GcalMobile”は、とりあえずGPLとして出していま
す。全て自分あるいは自分たちでつくったものだったら、あとで商用として
もいいのかな。まつもとさんのブログから見つけた。

> また、あなたは自分の書いたコードのライセンスを任意に設定できるの
> で、商用ソフトウェアに組み込みたい人が(有償で)特別のライセンスを
> 結びたいと申し出るかもしれない。いずれにしてもあなたに損はない。

こういった問題には不慣れなので、悩みが止まらない。

参考ページ:
[OSS]フリーソフトウェアライセンス診断
http://www.rubyist.net/~matz/20030608.html

[prog] 商用ゲームやアプリによく使われるC/C++用ライブラリ
http://hammm.blog21.fc2.com/blog-entry-44.html

オープンソース
http://ja.wikipedia.org/wiki/オープンソース

カテゴリー: 楽天日記 タグ: ,

悟るということ

2006 年 10 月 30 日 コメントはありません

夜になって疲れているとナチュラルハイになってしまい、自分でないような
昨日のような文章を書いてしまいます

あまり気にしないでください。

ついでながらもうちょっとだけ、ナチュラルハイになって書きつづけてみま
す。若いときは世の中について知りたいと思って、いろいろなことを学ぼう
と知ります。それが理科系に進むと、本当の世の中は何かということが知り
たくなります。真実を探すのです。

数学の方程式の答えや、ニュートンの法則、E=mc^2、不確定理論、いろいろ
な単純な理論で物事を解明しようと思います。世の中の基本法則は単純な法
則や理論で成り立っているのかもしれません。

私の世代は、ちょうどオウム真理教の世代でした。
私が大学にいた当時もオウム真理教の名前を伏せたサークルがあったりしま
した。今になって思えば、一歩道を踏み外していればそちらにいったかもし
れません。人一倍、哲学や宗教に関心があったと思うし、昨日のブログに書
いたようにインドのリシケーシュに行っていたりしましたから。学生時代に
休学して1年間旅行していたのも、いま思えば自分探しの旅をしていたのか
もしれません。

いろいろな本を読みました。ムーという雑誌やオカルトものや、宗教書ま
で。オショウという人の書いた本も、日本人として始めてチベット入りした
河口慧海の旅行記。デカルトもスピノザも。パスカルも。聖書もコーランも
興味を持ちました。

それぞれの宗教の聖地へ行ったり、教会を覗いたり、モスクに入ったり、お
祈りの真似事をしたり、、、、

私が特別だとは思いません。同じようにそうやって自分探しの旅で世界中を
回っている人は同時期の日本人だけでも数百人。欧米の人やどの時代にもそ
んな人はいると思います。そして、どれだけ理解をできたか、自分のものに
できたかわかりません。

普通に聖書を毎日読んでいる人の方がずっとモノにしているかもしれません
し、街角にいるごく普通のおじさんやおばさんの方がそういったことを実感
をもっているかもしれません。

22歳の頃に自分が考えたことをここに書きますが、それから20年変わってい
ません。あれから20年経って、自分はその道をかなり曲げて今があります。
宗教や禁欲やそういったものに価値を見出せなくなったかもしれません。

それぞれの宗教の目的の一つは、人間としての悩みや苦を乗り越えようとす
ることにあると思います。それを全て可能にすることが、「悟り」を得るこ
と。仏教やヒンドゥー教やジャイナ教などではそういうみたいです。キリス
ト教でも、高次元の瞑想というものにそういう考えがあるようです。イスラ
ム教でもスーフィズムはそれを追求したようです。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%82%9F%E3%82%8A

「悟り」を得れば人は生きるのが楽になるといわれています。
そうなのか?「悟り」を得るとはどんなことなのか?

いまよりも人口の少ないシッダルタの時代、キリストの時代、そういった過
去の時代にそういう人がいました。それからいままで、「悟り」を得た人は
あまりいないのか?それとも過去の時代と違って、今の時代は「悟り」を得
るのは難しい環境なのか?

昔のことは美化されます。今はいろいろな側面で物事は語られ、善意に解釈
する人もいれば悪意に解釈する人もいます。昔は文字を持つ人はわずか、そ
れをしきる人もわずか、結局かなりの情報操作が行われていたと考えるのが
自然ではと思います。

そう、たくさんの「悟り」を得た人がいるはずです。

では「悟り」とは何か?

一つの仮説です。
生きていながら死んでいるような状態。物事に囚われず、いま生きていよう
が死んでいようがどちらでも身を任せるような。
いま死んでしまってもかまわない。いま生きてしまってもかまわない。

自分の肉体は自然の一部であり、自然の循環の中で自然の法則の中で肉体が
生きている。自分の精神も自然の一部であり、何を考えようと何を思おう
と、それは自然の一部である。

どんな苦しみもどんな痛みもどんな辛いことも、自然の中の一部。
それを感じるのは自然の一部であり、それに対処するのも自然の一部。
痛いかも苦しいかもしれないが、それは生きているという感覚。
辛いと感じるかもしれないが、それも自然の中での精神における思考。

楽しいとかうれしいとか感じるのも、自然の中の精神の一部。

何が起ころうとも、この一時でたとえ誰かに殺され、死んだとしても、自然
の一部であり、その肉体は自然の中の一部。

水が川になって流れるように、その水はただ単に高いところから低いところ
から流れているだけ。その水には、ときどき粒になったとか、水蒸気になっ
たりとか、形を変えようと、あくまでも水。そう自然の一部。

何をしようと何をしなくても、自然の一部。

なんてことを、自然と心に刻みこむことができればそれが「悟り」ではない
かと思った。私はそんな「悟り」なんてどうでもいい、普通に生きていれば
それでいいや。痛みや苦しみから逃れることはできず、いまももがいてい
る。もしそれが「悟り」というならば、まったくそれに到達することはでき
ない普通の俗人でございます。

なんでこんな堅苦しく、変なことを書いているかといえば、、書くと忘れる
ことができるんだよね。
つき合わせてしまってごめんなさい。

カテゴリー: 楽天日記 タグ:

ロバートキヨサキとチバレイと、限界を超えて

2006 年 10 月 29 日 コメントはありません

ロバートキヨサキ氏のある本の最後でこの詩が紹介されていた。

人はなるべき人になる。
失敗には偽りの満足を見つけさせるがいい、
その貧しい言葉の環境の中で。
だが魂はそんなことには目もくれず、自由でいる。
魂は時間を支配し、空間を征服する。
得意げなペテン師がつける隙をつぶし、
暴君たる環境に命ずる、
王座を降り、召使の座を満たせと。
人間の意志・・・・・その見えない力。
死ぬことのない魂の子孫は、
どんなゴールに通じる道も切りひらくことができる、
たとえ大理石の壁が邪魔しようとも。
遅れようと忍耐を失わず、
じっと待とう、そして理解するものとなろう???
魂が立ち上がり命令を下す時、
神々が喜んでそれに従うことを。

            エラ・ウィーラー・ウィルコックス

彼の本は一読に値すると思うのだがこの詩を紹介しているくだりは、ちょっ
と雰囲気が違っていた。ベトナム戦争の徴兵を免除される資格があったにも
かかわらず自ら進んで海兵隊に志願して、そこで頭脳や身体、感情の限界を
超えることを学んだという。そして、ベトナム戦争で生き残った知人も、限
界を超えたという。彼らがいま生きているのは、既に死んでいる同僚が戦っ
てくれたからだという。

アインシュタインの言葉を引用している。
「偉大なる精神は往々にして、凡庸なる頭脳からの暴力的な反対に遭遇する」

キヨサキ氏は自分は特に優れたとはいえない凡庸であると自らをいい、そし
てその限界を超えて突きすすんだから、今の自分があると言っている。誰も
が恐怖と感じている、起業と借金を自分の中に取り込んだところだ。

さて、「金曜日のスマたちへ」に出演していた千葉麗子さんだが、結構苦労
しているね?。順番は違うが辿ってきた人生が似ているような、いや俺はア
イドルじゃないか。

彼女がヨガを学んだという、インドのリシケーシュ。
私は1987年にインドへ行ったとき、短期の修行場所を探して行った。20年前
は10年前と違って、ヨーガ教室のようなものはなかったと思う。彼女が滞在
してヨーガを習ったという、シヴァーナンダーアシュラム。シヴァーという
のは、シヴァ神のこと。アシュラムというのは修行場という意味。ナンダー
というのは、何だっけ。

シヴァ神信仰の修行場だよね。ヨーガは修行の一環だけど、その前提に菜食
と禁欲であることが求められた。シヴァーナンダーアシュラムまで行ったん
だけど定員がいっぱいで断られた。それでもしがみつけばまた別の人生が
あったかもしれないが、やっぱり不器用。

いまは禁欲生活ではないし、肉も食べるようになったし、全く逆方向へ向
かっている自分。
世間で言われている悪評ではなくて、意外といい人かも。

彼女もアイドルになって、そして会社を興して、そして父親の死、ヨーガに
出会って、それぞれの困難を乗り越えてその度に一皮も二皮も向けている。

事業家の先輩として尊敬している。

そろそろ、限界を超えてみる時期かもとふと思った。
どうやら、未踏ソフトウェア事業への応募は書類選考で落ちてしまったかな
と感じ、かえって吹っ切れた気分の今日この頃であった。

カテゴリー: 楽天日記 タグ: