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2006 年 2 月 のアーカイブ

教育の平等がないなんて、気にしない

2006 年 2 月 28 日 コメントはありません

昨日の中日新聞に学力の2極化について記事が載っていた。
http://www.chunichi.co.jp/00/sya/20060226/mng_____sya_____002.shtml

(共同通信)
http://www.excite.co.jp/News/society/20060225120910/Kyodo_20060225a438010s20060225120912.html
ネットのニュースでは詳細が省かれているが、新聞では以下のように書いてある。

平均程度の学力の子が減って下位層が増え、上位層との二極化傾向が進んでいる。親の経済格差がそのまま子どもの学力に影響を与えていると感じる。その理由は、親が勉強の面倒を見る余裕がない、生活自体が成り立たない、親が成績に感心を持たない、塾や参考書に関心を持たない、からだと言っている。

裁判における子どもの養育補償について調べたとき、驚いたことがある。
子どもが高校卒まで補償するか、大学卒まで補償するかという点であるが、親の最終学歴と同じ程度でよいとのことだった。
今になって思うと、親の教育に対しての考えるところと、子どもの最終学歴は相関関係があるように思う。親が教育について考えているところは、子どもが学ぶ点について真剣に考えていると思う。私は子どもが自分で選ぶのならば、高校卒業でも構わないし、大学までいってもいい。学費の安いところを望んでいる(私の親と同じことを言っている)。程度のあまりよくない大学へ行って遊ぶぐらいならば、やめておけと思うだけである。

小学生の娘の友達が、「私はお金がかかるから大学へ行かない」と言っているのを聞いてショックを受けた。大学へ行くのはお金がかかる。しかし、お金の基準で大学へ行って学ばないという基準を設けて欲しくない。大学に入って学ぶことで、その後の人生が大きく変わるならば、ぜひ大学へ行って欲しい。価値のある進学ならば、数百万の借金ぐらい、すぐに取り戻せるはずだ。

マサチューセッツ工科大学は、1年で400万円ぐらいの学費がかかるそうだ。MBAのコースや、医科大学も同様だろう。学生の多くは学費ローンを組むそうだ。卒業するまでに1000万円以上のローンを抱えて、就職するそうだ。

ただ、日本の大学も学生が少なくなるので、変な競争を始めているようだ。やたらと大学院を設けている。本当にきちんとした教育をすることが可能であろうか?

二極化の話に戻るが、これはどうしようもないことである。
ただ、これまでの日本は世界でもっとも成功していた「社会主義」国家だったので、それが世界の資本主義の荒波を受けて、二極化をはじめとするさまざまな形に変化しようとしている。経済格差も同じである。中国や東南アジアでは、同じような仕事をしても10倍以上の賃金格差がある場合がある。言葉の問題や国の壁があるにしても、このダムからの水は徐々に高いところから低いところへ流れていくのが自然なことだ。

私たちの政府や考え方は、この変化に対応するのが遅れていることを認めよう。
学校教育は政府のやり方や日教組がいつも批判の対象にされているが、そんなことよりも個人でどうするか考えよう。今の時代は、昔と違って情報にあふれている。図書館にもたくさん本があるし、インターネットには情報が溢れている。

私たちにとって大切なのは、何を学ぶべきか?どうすれば学ぶことができるか?その方法を考えることである。

まず最初に学ぶことは、国語や算数の基礎学力。
そして、自分だけではできないことに気づき、協力してやることの大切さを知ることであろう。そこには、Give&Takeや、ゲーム理論などの戦略的なこともあるかもしれない。
日本語は限られて言語なので、最低英語を身につけよう。日本語だけの10倍以上の情報が英語で眠っている。コンピューターに関する本もビジネスに関する本も、英語で読めた方が安く早く手に入れることができる。もし英語で本を書くことができれば、10倍の読者を得ることができて、10倍の著作料も得ることができるかもしれない。。。。。。(私は英語の本を読むのに疲れてしまうので、まだそれは適わないが)

あとは問題にぶつかったら、それをうまくアドバイスしてくれる親か教師があればいい。
基本は自分で解決することだと思う。

中学校や高校での教育、大学での講義なんていうのは、学ぶきっかけに過ぎない。
結局は、自分で本を読んで理解を深める。問題を解いてみて、自分の理解が正しいかどうか知る。そうやって、進めていけばよい。

学校というのは、本で学ばないことを学ぶところだ。
だから学校に期待しすぎるのは間違っていると思う。自分で学べ。
先生は本の中身を教えるのではなくて、自習できる手段や興味を持たせることを教えるべきではないかと思う。

だから、私は教師になりたくなかった。

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普通の日々

2006 年 2 月 27 日 コメントはありません

今日はまる一日雨模様でした。

地元の知多市の催しで、子供向けの演劇を見に行きました。
劇団うりんこで「ドングリ山のやまんばあさん」 というものでした。
http://www.urinko.jp/

3人の劇団員という小規模なものでしたが、コメディがちりばめられていて、子どもは大はしゃぎでした。子どもの扱いがうまいなぁと思います。小学校低学年向けの演劇ですが、小4の娘も息子も喜んでいました。
その後、近くに住んでいる私の母のところにご挨拶へ行きました。先日購入したDVDプレーヤーとビデオの設定がわかりにくく設定ができなかったということです。

既にたくさんのケーブルがつながっているのでわからないそうです。
でもこちらはケーブルをつなげておしまい。
ビデオは、ケーブルテレビのチャンネルと地上波アナログテレビ信号のチャンネルが違っていて、Gコードの予約ができないとか。前に一度設定したのですが、いじっていて消してしまったみたいです。

母に預けてあった、娘のひな人形を自宅に運びました。
そのひな人形を娘と並べました。団地サイズの小さなひな人形。去年は、ついつい飾るのを忘れてしまいました。娘は平気な顔をしていましたが、さきほど娘のブログを読むと、今年一緒に並べたことはうれしかったみたいです。

家に帰ってきて、普通の夕食を家族4人でしました。
食事を囲んで、屈託のない話を娘や息子としました。何のお金もかからない普通の日々です。

20年以上前に見た、ロバートレッドフォード監督の「普通の人々」という映画を思い出しました。

すべては、この普通の日々を対象に商品とサービスが提供されているのかな?
それとも逆に、普通の日々から商品とサービスが生み出されているのかな?

創作活動は、異常性の中から生み出さると言われます。
その異常性の中で、これまでにないモノが生み出され、時代や創造性の度量でそれが取捨選択され、生き残るかどうか決定されます。
そんなことを、ふと考えてしまいました。

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【本】ウェブ進化論

2006 年 2 月 26 日 コメントはありません

書名:ウェブ進化論
著者:梅田望夫
ちくま新書
ISBN4-480-06285-8
\740+税

本が出版されてからすぐに入手して読んだ。
2回目読んでから感想を書こうと思って、心の中でころがしている。でも2回目をまだ読む気になれない。

著者は、Googleという会社が起きていることの社会的変化を述べている。
私も2000年の終わり頃からGoogleを使い始めている。Webを使い始めたときは、DECのAltavistaがいいなと思い、その後YahooやGooの検索エンジン。だけど、検索窓のシンプルさ、検索結果の早さが気に入って、Googleばっかりだ。

Googleが他の会社と異なるというのは、以前からニュースで感じていた。
AmazonもGoogleも黒字になる前の長い間、水面下で努力していたという感じがあった。ITバブルも潜り抜けた。Googleは技術に磨きをかけていたし、Amazonは消費者とメーカーの顧客リストを集めていた。

そして、いま両者ともその努力が実って、勢いづいている。
(コメディアンが不毛の時代に努力を積み重ねた方が、一度売れると芸の深さで長い間売れるというのと、似ているかな!?冗談です)

Googleが何をやっているかということを著者は「あちら側」の開発を行っているといっている。それに対して、日本のIT産業は「こちら側」である。

普通の人がIT産業に浮かぶイメージは、「こちら側」である。つまり、私たち一般の人が目にするコンピューターシステムのことである。ホームページやブログ、Webを使った楽天などのEコマース、Yahooの画面に見えるシステムである。会社に導入される生産管理システムや勘定系のシステムがそうかもしれない。

「あちら側」というのは、システムの裏側で切磋琢磨しているところだと思う。
Googleエンジンの仕組みや、ERPというシステムの内部的なところだったり、少し顧客とは離れたところで動いているところである。

それは、日本のIT産業は顧客主導によるものが多いからであるともいえる。顧客がもつ業務の特殊性にあわせて、顧客の業務を自動化したり効率化することが目的だからだ。顧客の業務それ自身を変えるのは、コンピューターシステムではない。

顧客の特殊性をできるだけ汎用化させると、コンピューターシステムも汎用化になる。その汎用的なコンピューターシステムは複数の企業で共通して使うことができ、納期も短縮、コストも安くできる。それだけではない、特殊性にかかわる費用を別の目的に使うことができる。

日本に限らず多くの会社でERPの導入に失敗しているのは、その特殊性を捨て切れなかったことにある。どこまで捨てるかというところが難しい。この話は私は専門化ではないので、これ以上は述べない。

Googleに話を戻すと、Googleは検索エンジンをつくることに特化した。
検索エンジンがビジネスになるとは誰も思わなかった。世界中のWebを検索対象にして、正確にしかもすばやく結果が出せると思えなかった。それをGoogleは、独自のシステムを作り上げ、やりとげた。

Googleは、世界中から優秀なエンジニアを集めて、それぞれ3人ぐらいの少人数で開発をさせている。Google Map、Google Earth、Google Mail、Webで簡単にページを作ることができるものなどいろいろである。
このエンジニア集団だけで、何が生み出されるかわからない。
悪く言えば、たくさんのゴミソフトかもしれない。ただ、Googleは世界中の情報を利用者のもとに自由に流通して届けることを行っている。裏では研究開発を革新的に行っている。

古い話だが、アルピン・トフラーの「第三の波」、ピーター・ドラッカーの「テクノロジストの条件」で予言された、集団であるかもしれない。

この本を紹介しているある人は、著者はブログで意見を述べることが多い。著者のコンサルティング業務で持論を転換しても、わかってもらえないそうだ。そのため、古いメディアを用いて、少しでも持論を広げることができればという気持ちがあるそうだ。

私も以前から同じ考えである。

以前のブログでちょっとした未来予測をした。ただこれからの未来のことを書こうと思って、途中まで書いたけれどSFのようになってしまって現実味が出てこないので、このブログに載せていない。

仮想現実の行く末が、著者の「あちら側」の世界への参加ではないかと思う。
「こちら側」の世界では、私たちの生活があるところである。私たちは生き物であるので、食べたり飲んだり排泄したり、寝たり、生殖行動をしたりというのは、すべて現実の世界で行っている。これは、すべて「こちら側」の世界で「こちら側」のコンピューターシステムと絡んでいることである。

「あちら側」のシステムは、コンピューターの中に情報を探ったり最適化したりする世界がある。まだその世界は未発達で、「こちら側」の住人にはわかりづらい世界である。簡単に比喩をすれば、マトリックスの世界である。現実の世界の時間や重力の物理学と、マトリックスの仮想現実の世界では時間が止まり、重力の制約がなくなる物理現象がある。

私たちの持つ比喩はそれが限界である。
数学の世界では、現実の比喩と絡めつつも仮想の世界での法則(定義、定理)を扱う。

将来起こりうることは、ときおり数学の世界から現実に影響を与えることがあるのだ。暗号化の方法や線形代数における特許事件(カーマーカー法)などである。そして、こういった数学的なことが裁判官や政府のリーダーに理解できないので、これからは特許を申請せずこっそりつ使われていくに違いないと思う。Googleの検索手段やGoogle Talkなど、直接利用者に触れるものは特許紛争になるので、特許を申請すると思う。

つまり「こちら側」の世界だけにしか興味なければ、こういった話はわからない。そして、ときおり天災のように「あちら側」から革新的なことが波及することが起こる。

私も時間の半分以上を「あちら側」で過ごすかもしれないので、「こちら側」の仕事を半分くらいやって生活できればと思う。

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