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2005 年 12 月 のアーカイブ

風邪で苦しんでいます

2005 年 12 月 31 日 コメントはありません

沖縄旅行したあたりから、風邪を引き始めました。
旅行の疲れもあって、咳がひどく苦しんでいます。そのため、ブログが更新できていません。

妻が沖縄旅行の写真を使って年賀状を作りたいといっていましたが、、、、全然できていません。
いつも住所を書くのも含めて、全部私がやらないといけないので、また年が明けてからも年賀状を作っているんだろうなぁ。

でも風邪をひくと薬も飲んでいないのに、眠気をもよおすよね。不思議だなぁ。
昨日は午前中、今日もお昼から半分くらい寝ています。(~o~)

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沖縄旅行4日目(DFS)

2005 年 12 月 29 日 コメントはありません

昨夜は9時頃、那覇のホテルに着いた。
那覇北部にある、エッカホテルという古いホテルである。40年近く前のホテルのようだ。
部屋はファミリースイートという種類で、50平方メートルくらいあり広い。ベッドが3つと畳の部屋が12畳あり、そこに布団が1つ敷かれていた。キッチンと冷蔵庫もあった。

昨日のホテルが本当に最高だな。
昨日のホテルは、某会社の研修所が紹介してくれたシカゴ市内のホテルよりも良い。これまで泊まったホテルはかなり多いが一番良かったと思う。ヒルトンやシェラトンやマリオット、これらは全部会社の金で泊まったけれども。昨日の彼女も、あそこはデートコースで有名だけれど予約は一杯でとれないし、沖縄に住んでいるからといって安くならないのよと言っていた。やはりホテルの無料サービスの古酒と泡盛をいただいてきて、プレゼントしてあげればよかった(妻からは割れたら悲惨だからととめられた)。

ホテルの朝食は、団体ツアー客がほとんどであったが、まあまあよかった。最初のホテルよりもよかった。8時頃にチェックアウトして、レンタカーの返却について確認をした。レンタカー会社でいただいた案内では、指定のガソリンスタンドで満タンにして最初に乗ったところで返すというのが条件だが、那覇に最近できたDFS(免税店)でも返却できると書いてある。

http://www.dfsgalleria.com/Galleria/Japanese/Okinawa/Okinawa_Destination_Home.html

電話で確認したら、ホテルに近いガソリンスタンドで満タンにしてもよいという。それはしてやったりと思い、ガソリンスタンドによってからDFSに行くと8時半に着いた。しかも、さまざまなサービス特典がつく。(1) DFSから空港までのモノレール券を家族分サービス、(2) 1000円分の食事券サービス、(3) 1000円分の商品券サービスの3つだ。おまけに朝の渋滞時に街を横切って空港近くのレンタカー屋まで行かずにすむ。

DFSは世界中の空港にある、DFS(デューティフリーショッパーズ)のチェーン店である。その国の税金(消費税や物品税)などがかからないので安いとされている。ここは国内であるが、沖縄へ旅行するのはあたかも海外のようなのでという特別な理由で、免税で商品が買える場所である。一応、帰りの飛行機の搭乗時間の2時間前でないと購入できない。しかし、こういった免税ビジネスの独占なので、税金がかからないことを除けば決して安くはない。税金のかかっている普通の店の割引の方が安いこともあるから、何でも安いと思うのは早計である。

妻にクリスマスプレゼントを免税店で買おうかといったら遠慮された。結局1000円の商品券は、イタリアのおいしいチョコレートFERRERO ROCHER(http://www.rocherusa.com/)の代金の一部となり、食事券は子どものアイスクリーム2つに消えた。

指定のガソリンスタンドによるガソリンは1リットル136円ぐらいと高かったが、300kmぐらい走って3000円かからなかった。沖縄は、知多半島の先っぽから犬山までの大きさかなと思う。狭いようで広く、でもやっぱりさして大きくない。

今回の旅行の自分のもう一つのテーマは、沖縄でのビジネスである。
車を運転しながら、町並みをみたり、人々の生活、米軍基地などを眺めながら考えた。
沖縄は物価も安く、暖かく、とても居心地の良いところである。しかし、小さな地域なのか産業がない。農業・漁業はしれているので、実質は観光と基地産業しかない。
自分がここでビジネスをしかけようとしても、、、、、、観光にすがるしかないだろうな。
ソフトウェア開発は資本があまりかからないけれども、顧客がいない。受注システムではなくて、商品開発をしてもいいが、沖縄の環境では刺激が少なく、才能のある開発者が少ない。残念ながら名古屋よりも事業環境はよくないと思う。

たった2回目の沖縄であるが、前世は沖縄にいたんじゃないかなと思うほど沖縄との縁を感じる。またまた沖縄を好きになった。

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沖縄旅行3日目(ひめゆりの塔と旧友に会う)

2005 年 12 月 29 日 コメントはありません

(写真は、喜屋武岬にある平和の碑)

昨夜からブセナカントリークラブにいる。すばらしい目覚めだった。
こんな素敵なホテルは、お金を稼ぐようにならないと泊まれないだろうなと思う。

荷物を車に積んで、レストランやレセプションのある建物まで車に乗って行く。食事の後にまた部屋に戻って来て荷物を積んで、そして戻ってチェックアウトをするような何度も往復するのは嫌なので、食事が終わってすぐにチェックアウトできるようにする。

すると、たくさんのゴルフプレーヤーがプレーし始めていた。
ゴルフはたくさんお金がかかるスポーツでこのブセナカントリークラブは少し高級感の漂うところだ。受付やレストランで働く人たちも、美しく品が良い。ゴルフをするかどうか別にして、やはり品の良いところがいいなぁ。

朝食をとって、ひめゆりの塔へ車を走らせる。自動車道を通って1時間も経たず豊見城にこれるが、分岐点でまっすぐ行くところを間違えて那覇の方へ行ってしまった。急遽、那覇の首里城へ行く。首里城のそばで、レンタカー優遇と案内のあった、少し遠い駐車場へ行く。首里城の駐車場は少し高いそうで、そちらならば駐車料金500円と入場料を2割引で売ってくれる。少しオトク。

首里城は石積みは本物、建物は戦争で焼けたので再建したものだ。本やテレビでみるように、中国と日本の文化の中間のようだ。首里城の中で娘がデジカメのカバーをなくしたので探した。もう一度ぐるっとまわるなどして、かなり念入りに探したけれど、見つからなかった。紛失届けを出して見つかったら、着払いで送ってくれるそうだ。

那覇の中心にある国際通りを通って、日本軍の基地へ行った。地面の中を穴が掘ってあり、そこに第二次大戦のときの地下基地がある。今では住宅街の中にあって公園と慰霊碑が建っている平和な感じのするところであるが、入ってみるとなまなましい感じの穴のまま残っている。地下100mまで高さ・横とも180cmぐらいの穴が戦争末期に掘られたようだ。司令官室、暗号室や発電室などが用意されているが、他は部屋らしいところはなく、怪我をした兵隊は通路に寝かされ、元気な兵隊は下士官室に立って寝たそうである。司令官室では司令官たち上層部の人たちが何人か手榴弾で自殺した、その破片による跡も残っていた。

沖縄本島の最南端、喜屋武(きゃん)岬へ向かう。途中でソーキそばを食べる。子どもたちには好評。妻はおなじものばかりで飽きたというから、豚足の入ったそばを注文する。でも豚足は脂っこく、この店のオリジナルそばの方がおいしい。ソーキと骨付き背バラ肉、かまぼこが入っている。そばはどこでも同じだが、固めの少し細いうどんだ。こんぶと豚、そしていわしでダシをとっているのかな。豚骨でだしをとるともっとおいしい気がするが、それは豚骨ラーメンになってしまうか。

喜屋武岬は国道から外れて、細い道を行く。途中はサトウキビ畑があり、道も車ですれ違うことができないところだ。着いてみると、ほとんど何もないところだが、断崖絶壁で戦争当時自殺した人もいるそうだ。眺めはとてもよい。そしてひめゆりの塔へ向かう。

ひめゆりの塔は、14年前に沖縄の慶良間へダイビングをしにいったときに、台風で琉球コミューターというプロペラ機が台風のため那覇から慶良間へ飛ばなかった。そのときにバスに乗ってここまで来たのだが、「台風のため休館」となっていて入れなかった。やっと今回来ることができたところである。「ひめゆりの塔」という映画もあったぐらい有名な話である。いまでいう女子高生が戦時に看護婦として働いて、先生も含めて220名中200人近くなくなったという話である。当時の女子高生の生き残った人が、説明員という肩書で館内で話してくださっていました。30分以上、ずっと耳を傾けていました。

・ひめゆりの名前は花と関係なく、2つの姉妹校の名前をつなげたものであること。
・ひめゆりという名前が有名になってしまったが、沖縄戦でたくさんの人がなくなったが、ひめゆりももっと悲惨な死を遂げた人がたくさんいた。
・ひめゆりで看護婦として働いた人は200名以上いたが、実際の高校生は800名ぐらいいた。通いの600名は看護婦として参加せずほとんどが助かった。この200名は寮生で親の承諾を得ずに、看護婦として連れてこられたこと。あのとき親が反対していれば、看護婦として働く必要もなく助かったかもしれない。
・沖縄で兵隊が不足したので、兵隊を徴収する法律を変えて年齢を15歳ぐらいに引き下げた。そのため、男子校の生徒の多くが兵隊として戦った。その中には、背中に爆弾を抱えて、米軍の戦車に向かって自爆する子どもがたくさんいた。ただ、多くは自爆する前に撃たれて死んだ。6台くらいは成功して、戦車が大破したそうである。

生の証言も迫力があったが、ビデオでも他に生き残った女性たちの話がつづられていた。

フィリピン人である妻は英語のガイドブックを買い、娘も証言のビデオに聞き入っていた。2人に強烈な印象を残したようである。私も生の証言を聞けたことは感動を覚えた。

そして、宜野湾市にある知人に会いに行く。
北中城インター近くにある。カーナビに地名を入れたら、そこまでの道を教えてくれる。カーナビのいう道は道路事情をどれだけわかってくれるか疑問であるが。とにかく教えてくれるのはうれしい。特に今回は住宅地なので住所しかわからない。地名と番地を入れるととても近いところに行く。実は知人の家を夜に出た後、携帯に電話がありビデオカメラを置き忘れたとの事。夜にもう一度戻ったときに、カーナビは役に立った。

夕方の4時頃、約1時間ぐらいかけて知人の家に着いた。
カーナビのおかげで近くまで来たのだが、アパートがわからない。近くまで来たら連絡するように伝えていたので、電話をかけた。1歳2ヶ月のお子さんがいるので申し訳ないけれど、出てきてもらった。すると遠くに子どもを抱えた若い女の人が階段を下りてくるのを見たので、5年ぶりになるが一目見てわかった。彼女には銀行にお勤めの夫の車の駐車場に停めさせてもらい、彼女の家に家族で行った。

彼女は私の住んでいるところで知り合った女性である。娘が幼稚園に入る直前の「タック」というプリスクールで、彼女の息子さんと同じクラスになったので知り合った。住んでいるところはすぐ近くで、とても気さくな人だったので仲良しになった。もう7年前くらいだろうか。娘も3歳ぐらいだった。公園で遊んでいるときも、彼女の方から話しかけてきて、よく話した。といっても、よくしゃべる人で私は相槌を打っているほうが多かったが。

彼女はタックのおかげで妻ともよく話した。当時の妻はあまり日本語がわからなくて、ときおり私の通訳が必要だったが、それでも彼女はよく話してくれた。妻にとって、初めてできた日本人の友達といってもいい。彼女も実は、沖縄の名護市出身で短大のときから名古屋に来ていて、さびしかったのかもしれない。彼女は20歳ほど上の男性と、親の反対を押し切って結婚して暮らしていた。だけど結婚生活はうまくいっていなくて、知り合って2年ほどで逃げるようにして離婚して沖縄へ帰っていった。

それからは年賀状のやりとりや写真を交換していたりをしていた。
ずっとしゃべっている人であったが、とても気さくな人で、肌の白い美人だった記憶がある。今回初めて彼女が離婚した理由を教えてくれた。口喧嘩ならば許せたけれど、子どもの前で暴力を日常的に振るわれたことが決定付けたようだった。彼女が友達を作っても夫はそれを許してくれなかったり、外出も自由にできなかったらしい。彼女も夫のために友人と仲たがいしたことがあったとか。彼女が結婚しているときは、彼女の家族と娘のさゆりを一緒に遊びに連れて行ってくれたこともあったので、離婚したことが意外だった。

彼女は小学校1年生の息子を連れて、故郷の名護市に戻って働いていた。それから2年子連れで苦労して、銀行に勤める男の人と知り合った。デートもお子さんを連れて、新しいお父さんになる人と相性がよいかどうか確かめていた。息子さんが「お母さんが好きな人だったら、結婚していいよ」と言ったし、夫も夫の家族もとても暖かく迎えてくれたので結婚に踏み切ったそうだ。残念ながら銀行の勤めが遅く会うことができなかったが、沖縄出身のとてもまじめで暖かい人のようだ。彼女によると、怒ったことがないという。

彼女は北谷(ちゃたん)にある、美浜アメリカンビレッジに車で連れて行ってくれたり、手料理をごちそうになった。
http://uchina.okinawa.cc/okinawa/hontoutyubu/chatan/chatan.htm
そのうちご主人が家を建てるそうなので、そのとき広くなった家に遊びに来てくださいと言われて、本当に行こうと思いました。

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